オリンピックをテレビで観ての感想は、概ね今日(9日)の朝日新聞朝刊の「社説」に書かれていることと近似している。それだけ、私の感覚が「常識」的だということで、取り立てて何か言うべきことがない。
ただ、行事(イベント)やスポーツには、偶然ということがはたらき、それが成功か失敗かを決めること少なくないと感じた。一番ラッキーだったのは、天候のように思う。オリンピック開催期間中に3つの台風が来たが、進路が少し逸れたり、列島を直撃する時間が、開催時間の少し前後にずれたりして、無事開催されたものも多い。サッカーや野球やマラソンや閉会式が、天候を気にせず行われた。。サーフィンは、台風のお陰で外房の上総一宮の海に波が立ってよかった。また野球は、日本にラッキー場面があり、勝てたと思う。アンラッキーなのは、サッカーの得点が入らなかったことと、新型コロナの感染が治まらなかったことであろう。アンラッキーに関しては、偶然というよりは、必然という見方も多いと思う。
(朝日新聞の社説を一部転載)「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
東京五輪が終わった。新型コロナが世界で猛威をふるい、人々の生命が危機に瀕するなかで強行され、観客の声援も、選手・関係者と市民との交流も封じられるという、過去に例を見ない大会だった。この「平和の祭典」が社会に突きつけたものは何か。明らかになった多くのごまかしや飾りをはぎ取った後に何が残り、そこにどんな意義と未来を見いだすことができるのか。異形な五輪の閉幕は、それを考える旅の始まりでもある。/ 万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。/ 「賭け」は行われ、状況はより深刻になっている。 懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。/ 市民に行動抑制や営業の自粛を求める一方で、世界から人を招いて巨大イベントを開くという矛盾した行いが、現下の危機と無縁であるはずがない。/ これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。/ 不都合な事実にも向き合い、過ちを率直に反省し、ともに正しい解を探ろうという姿勢を欠く為政者の声を、国民は受け入れなくなり、感染対策は手詰まり状態に陥っている。/ そして今回の五輪の強行開催によって、社会には深い不信と分断が刻まれた。/ 今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。/ 過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した。/ 式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。 財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった。/ 一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。 極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた。/ 選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。/ 強行開催を通じて浮かび上がった課題に真摯(しんし)に向き合い、制御不能になりつつある五輪というシステムの抜本改革につなげる。難しい道のりだが、それを実現させることが東京大会の真のレガシー(遺産)となる。