偏差値の高いエリート大学の教師は、大衆化した大学の教師とは違った苦労があるのかも知れないと、ふっと思った。
それは、エリート大学の学生が皆優秀というわけではないにしても、なかには教員以上に優秀な学生がいるせいである。
そのような学生がクラスに一人,二人いるだけで、教員にとっては、怖い存在である。自分の講義が易し過ぎると、その学生から軽蔑されるのが怖い。プライドの高い大学の教師にとって、学生から専門(学問)のことで軽蔑されることは、最も嫌うことである。
そこで、教師は、なるべく難しい内容で、わかりにくい説明で、学生を煙に巻こうと考える(注)。そのような方法で、自分のプライドを守ろうとする。それは意識的にではなくても。無意識にしている可能性が高い。
それで、割を食うのは、エリート大学の普通の学生たちである。教員の講義が難し過
ぎて、さっぱり理解できない。教員が、理解できないようにしゃべっているとは気が付かず、自分の頭が悪いのかとか、自分はこの分野に向いていないのかと悩むことになる。
大衆化した大学の教師は、そのような心配はなく、そのような気遣いをすることはない。学生の理解を助けるため、わかりやすい内容で、具体的な例を挙げ、学生の興味をひく方法で授業を進める。 学生にとっては、大衆化した大学で学んだ方が、絶対に理解が進むと思う。
またこれは大学院レベルの問題かもしれないが、エリーとの大学では、教員は優秀な教え子の院生が、自分を追い越していくことを恐れなければならない。師弟の実力が逆転する時に、いろいろ悲劇が起こる。
それらは、師弟関係の問題として、漱石の「こころ」の分析(作田啓一『個人主義の運命』岩波新書、矢野智司「先生と弟子の物語」)はじめ、「タッチ」の分析(藤村正之「言葉と心―『タッチ』の社会学的理解」)でもなされている(添付参照)。
注 このことは、別の言い方もできる。「教師は、自分の研究成果だけでなく、未完成でも研究のプロセスを学生に提示し、研究の醍醐味を教えることも必要である。それは講義に緊張感を与え、学生の新鮮な反応を引き出す」(武内清『学生文化・生徒文化の社会学』ハーベスト社、2014年、20ページ)
追記 上智大学で「公民科教育法」を長く非常勤で担当されている小原孝久先生より、下記のコメントをいただいた。ご了解を得て掲載させていただく(一部略)。
<なかなか面白い内容でした。しかしエリート大学の教師だからといって、「なるべく難しい内容で、わかりにくい説明で、学生を煙に巻こうと考える」などということが実際にあるのでしょうか。教師の力というのは、単なる知識の量だけではなく、それらの専門の知識がどのような構造をしているのか、他の事項や知識とどう関連しているのかなど、全体的な構造や骨組みを知っているからこそ教師なのだと思います。優秀な学生といえども、そのような構造的な知識、全体的な知識まではなかなか持てないのであって、教師はそのような点で勝負すればいいのではないでしょうか。 例えをあげるなら、最近の教室では学生はみんなスマホを持っており、断片的な知識はすぐ調べることができます。しかしスマホ的知識はあくまで断片的なものであり、その知識の構造や他の事項との関連などを理解した知識(=「生きた知識」)ではありません。教師の知識というのは、スマホ的知識の集合ではないということです。教師が「生きた知識」(=その知識の構造や他の事項との関連などを理解した知識)を持っていれば、断片的な知識を持つ優秀な学生の存在を恐れることはないと思うのですが。>