あいまいなもの

この世の中で、あいまいなものの取り扱いが一番難しいのかもしれない。
白とか黒とか、色がはっきりしているものは、取り扱いが決まっているが、
灰色(グレー)のものは、白として扱えばいいのか、黒として扱えばいいのか、迷うことが多い。
法律や規則で定められているものは、その通りにすればよいので楽である。
他方、各自の自由選択に任されている領域(食べるものや着る服、読む本や観るテレビ番組、聴く音楽など)は、その日の気分で決めればいい。
ところが、その中間のグレーゾーンのこととると、いろいろ迷うことになる。
学校で、授業や部活動で決められた時間は迷わずそれをすればいいが、下校の時、誰と帰るのかがグレーゾーンに入っていると迷うことになる。
宴会でも1次会は決められた式次第に従って進行するので迷うことはないが、2次会となると、それに参加するかどうかかで迷い、支払いやそのほかのことで気を遣う。
人間関係も、上司―部下、先輩―後輩、教師―生徒、夫―妻という関係は、地位や役割関係がある程度定まっているので、それに従って行動すればいいので楽だしあまりトラブルも起きない。ところが、インフォーマルな友人関係や異性関係は,はっきりしないグレーゾーンの部分が多く、いろいろ問題がおき、傷つくことも多い。いじめが起きやすいのも、このグレーゾーンの部分である。
「空気を読む」ということは、このグレーゾーンの濃さを的確に判断し、その濃さにふさわし行動をとるということである。

「地域社会と教育」「地域社会と子ども」というテーマを扱った本や論稿を読んでみると、そのあいまいさに困惑することが多い。学校教育の分野は、制度的に決められていることが多く、それに従うにしろそれに反対するにしろ、やるべきことははっきりしている。
ところが、地域社会というところは、曖昧模糊としていて、範囲もわからないし、親や子どもが地域社会のどのようなものからどのような影響を受けるのかも漠然としている。この分野の論稿は、その実態や理想を考察して、どのようにすべきが書かれているのであるが、それ自体があいまいで、自分の理解を超えることが多い(私は地域KYなのであろう)。

明日(10日)の授業は「こどもと地域の教育論」。テキストをもう一度読み直そう。そのテキスト 夏秋英房「地域社会と教育・保育支援」(『教育の基礎と展開』学文社、2016)に、次のようなことが書かれている。

地域の教育力には、意図が明確な組織的なものと、偶然的な関わりのなかで及ぼされる非組織的なものと、その中間形態のものの3つがある。この3つの覆う範囲が時代と共に変化して(昔は非組織的なもの優位、その後組織的なものが優位になり、今は非組織的なものが減少(いわゆるわ地域社会の崩壊)し、新自由主義政策で組織的なものも縮小(行政の民間委託)、その代わり中間領域は広がった。)その為、その中間領域を扱うNPOや、中間領域のマネージや3つの分野を調整する地域教育コーディネーターが必要になった。今は、地域教育のNPOと、地域教育コーディネーターの時代である。「地域教育プラットフォーム」構想は、そのあらわれあろう。
(http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/gakko/saihen/joho/iinkai/documents/03_03.pdf)