月刊誌の『新潮』(2019,9月号)が、「江藤淳没後20年」という特集を組んでいる。そのうち高橋源一郎「江藤淳になりたかった」と、上野千鶴子「戦後批評の正嫡 江藤淳」の2編には、とても感心した。ともに2019年6月8日と1日に神奈川近代文学館で行われた講演の記録だが、講演でこれだけ内容の濃いことが話せるのかということと、演者の江藤淳への敬愛の気持ちが表れている内容で、心打たれる内容であった。
江藤淳に関して辛辣なことも書かれているが、二人の話の底流には江藤淳への信頼があり、読み終わって、いい読後感であった。また、夏目漱石、吉本隆明、加藤典洋(「江藤の深い影響から出発した」)、内田樹などのことが、話の中でしばしば登場し、共感できる部分が多くあった。
高橋源一郎にしても上野千鶴子にしても、イデオロギー的には江藤淳とは対極にある二人が、江藤淳の批評の卓越性を評価し、その人間性への信頼を語っているのには心動かされるものがあった。
村上春樹は作家と読者の「信用取引」ということを言っているが、(村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社5)、その「信用取引」(「一生懸命時間をかけて、丹精を込めて僕が書いたものです」という作家の依頼を、「わかりました」と信頼して受け取る関係)も二人の語りに感じることができる。
高橋源一郎の、「一身で二生を経る」(2つの時代を生きる)という指摘(江藤淳は、1932年生まれで、戦前と戦後を生きている)もなるほどと思い、江藤淳に心酔するあまり、若い時に「江藤淳とそっくりの文章を書いていた」という回顧も興味深かった。
上野千鶴子が、江藤淳の『成熟と喪失』には、後のフェニミズム批評やミソジニー(女性嫌悪)の考え方が含まれていたという指摘には、日本の保守的な男性の代表のような江藤淳の批判眼を的確に評価して、さすがだと思った。
私が江藤淳の本を読んだのは『成熟と喪失』な最初で、その後『アメリカと私』「夏目漱石論』などを読み、こんなに鋭利な生き方や見方、豊かな感受性、切れ味のいい文章を書く人が、吉本隆明の他にもいるのだと驚き、その後江藤淳の本は、ほとんど購入して読んだ。武蔵大学在職中、学生が講演に江藤淳を呼びたいといい、私は講演の世話係だったので、江藤淳に依頼の手紙を書き、自宅に電話をかけ、講演当日名刺を交換した。(その名刺には、表は江藤淳とだけあった。肩書のない名刺をもらったのはこの時限り)。
私にとって雲の上の人のような江藤淳に直に会い、感激と緊張のあまり、行動や発言がかなりぎこちなかった(変だった)のか、ゼミの学生から、「(江藤淳の講演の前の)先生の挨拶が一番面白かった」と言われた。