「学校教育と無気力な子ども」という1993年の『児童心理』に書いた私の文章を今の学生も読んでくれて(学生のレポート)、「子どもの無気力は、今の社会への賢い適応」「青年期になると、大人の目の触れないところで生き生きしている」という文章などに、共感してくれることが多い。
しかし、若者や子どもの意欲や無気力について、もっと以前に、漱石が鋭いことを言っている。フリーターの走りと言われる(?)「それから」の代助の言い分を、改めて今日の新聞で読み、感心する。
<彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だといわれていた。彼の解剖によると、事実はこうであった。――人間は熱誠を以て当ってしかるべきほどに、高尚な、真摯(しんし)な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。それよりも、ずっと下等なものである。その下等な動機や行為を、熱誠に取り扱うのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、しからざれば、熱誠を衒(てら)って、己(おの)れを高くする山師(やまし)に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とはいえまいが、よりよく人間を解剖した結果には外(ほか)ならなかった。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、そのあまりに、狡黠(ずる)くって、不真面目で、大抵は虚偽を含んでいるのを知っているから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかったのである。と、彼は断然信じていた。>(「それから」朝日新聞、7月27日)