暇になると読む本

暇になると、昔読んだ本で、読み返すと何となく心が落ち着くものに、目(?)がいってしまう。
その一つは、村上春樹のエッセイである。今日は、『やがて哀しき外国語』(講談社、1994年)を読みかえした。
村上春樹の東部の大学人の文化に関する観察、西部の大学との違い、アメリカの床屋事情、アメリカのマラソン事情、ジャズ話、ジェンダーのこと、アメリカ映画の話、アメリカ人の服装観など、村上春樹の自由な視点からの外国(アメリカ)での観察や体験は、納得できるものが多く、且つ心温まる思いがする。
これは、外国体験とは関係ないことだが、村上春樹が若い時、やっていた店(ジャス喫茶、バー)について、次のように書いているのは興味深い。

「店をやっていると、毎日沢山の客がくる。でもみんなが僕のやっている店を気にいるわけではない。というか、気に入る人はむしろ少数派である。でも不思議なもので、たとえ十人のうち一人か二人しかあなたの店が気に入らなかったとしても、その一人か二人があなたのやっていることを本当に気に入ってくれたなら、そして「もう一度この店に来よう」と思ってくれたなら、店というものはそれでけっこううまく成り立っていくものなのだ」(218頁)

 村上春樹は、ジャズの店をやるという実際に体を動かして体験したことが「かけがえのない財産」と感じ、このことを自分の小説にも当てはめて考えている(「自分の書いたものが多くの人にボロクソに言われても、十人のうち一人か二人に自分の思いがずばっと届いていればそれでいい」218頁)。

 我々、大学教師でいえば、これは、書く論文や授業(講義)ということになろう。自分の書いた論文や本がほとんど人から評価されなくても、授業の学生による評価(平均点)が低くても、少数ながら理解してくれる研究者や学生がいることが、励みになる。