「おりるのがきらいな私には「海外生活」というキラキラした舞台にのぼる役まわりも気に入らなかった。『何でも見てやろう』(小田実のベストセラー、引用者注)というおりた観察者の姿勢に無理があるように、「いつでも眺められている」という自意識に縛られた演技者のポーズも不自由なものである。「生活」というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続である以上――しかもだれもとくに意識してそうしているのではない以上、見る一方、あるいは見られる一方という外国生活が、健康というもの理由はないのである」(江藤淳『アメリかと私』)
この文章を読んだ時の衝撃が忘れられない。それまで、小田実ファンだった私の熱は一気に醒めてしまった。旅行者の視点を、「おりた観察者の姿勢」と一刀両断に切り捨てる鮮やかさに唸らされた。「『生活』というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続」と、生活者の視点の指摘にも共感した。
私は海外旅行で、カナダのバンフの美しい自然を見た時も、フロリダのディズニーワールドに行った時も、さほど感動しなかったのは、そこに人々の「生活」がないと感じたからであろう、それほど、江藤淳のことばは後に響いた。(家人からは「あなたは旅行の楽しさが何もわかっていない。もう一緒に旅行しないと、」言われてしまたが、、)
数年前に上海に行ったとき、河を行き来する遊覧船に乗った。地方からの中国人の観光客が多く、甲板で演奏されるジャズに踊り出す中国人も多く、その人たちに混じっていると、自分も御上りの中国人になった気分で、感動した。上海のホテルのまわりの人々の暮らし(通勤や通学の様子)を、朝早起きして見て回るのも、私の旅行の楽しみであった。
江藤淳の『アメリカと私』は、江藤淳がプリンストン大学で2年間、日本文化や日本文学の教師をした生活者の視点で、アメリカ人やアメリカ社会について書いた本である。そのアメリカ体験が、帰国したからの名著『成熟と喪失―母の崩壊―』を生んだ。