友人関係について

子どもや青年にとって友人関係というものはとても大切なものである。親子関係や教師―生徒関係といったタテ関係からでは得られない貴重な成長の糧がヨコ関係の友人関係から得られる。友人関係に関して親や教師の介入できないところに大人のもどかしさがある。
「子ども調査でも友人関係に切り込んだ質問をすることはよくあるが、成功したためしはない」と深谷昌志先生がよくおしゃっていたことが、心に残っている。
昔企画した「東京都子ども基本調査」では友人関係を調べるのに「親友」について聞いた方がいいのか、「友人グループ」について聞いた方がいいのか、迷った覚えがある。結局、友人関係を、「親友」というというよりは「友人グループ」として捉え、親しい友人グループをもって(属して)いるか、その友人グループの人数や構成(異年齢や異性も含まれているか等)や話題について尋ねた。
自分の体験から考えると、小中の時は親友、高校の時は友人グループ、大学は親友と優先の形態は移り変わっていたように思う。男性の場合と女性の場合では違うことであろう。
今の大学生を見ていると、ひとりで行動している学生も少数ながらみかけるが、女子学生はペア(親友)、男子学生はグループで行動してのをよく見かける。男女混合のグループはあまりみかけない。いつか、その実態や心情に関して、学生に聞いてみたいと思う。
学校・大学卒業後、つまり社会人や家庭人になってからの友人関係はどうなのであろうか。それまでの親友や友人グループは学校卒業後、その付き合いは続くのであろうか。仕事関係の同僚や取引先の知り合いが友人になる場合もあり、そちらが優先になる場合もあるであろう。新しく作った家族の人間関係が主で、友人や友人関係は疎遠いなる場合もあるだろう。
歳とってから考えると、人との距離の取り方は安定してきて、それほど近くはならないものの、若い頃の親友との関係に近いものが、何人かとまた初対面の人とも築けるように思う。
このような友人関係について考えたのは、昨日(8月14日)の朝日新聞の下記の記事を読んだからである。なかなか味わいの深いことが書いてあった(一部転載)

本谷有希子の間違う日々  本当に羨ましい関係は
 友人の一人を「親友」とやけにアピールして話すような女の子を見ると、なんだかムズムズする。 あれはなんだ。誰もが心の奥底で欲してやまない、人生の財産となるものを彼女達(たち)は本能的に見せびらかしているだけではないか。 君達よ、と私は思う。確かにその絆は素晴らしい。そんな存在を夢のなかですら作れたことがない私は嫉妬するほど羨(うらや)ましい。 と同時に、君達がしつこくそのことを強調するほど、私の心の火は穏やかになっていくのである。なーんだ、言葉や写真でそうやって絶えず縛り付けなければもろく崩れてしまうシロモノなんだ、と安堵(あんど)するのである。そして今度は反対に、心配になってくる。 気づいているのだろうか。そうやってただ一人を親友と限定するたび、いま君達の目の前にいる別の人の心が、音を立てて離れていくことに。その絆をひけらかすために、他の全人類をそれ以下だと切り捨てていることに。 「愛は負けても親切は勝つ」という米作家ヴォネガットの言葉が私は好きだ。これを私なりに置き換えよう。「親友はいなくても、そこそこの知人がなんとかしてくれる」。知人万歳。そこそこの人達のなんと親切なことか! (作家・劇作家)