千葉の大賀蓮を見に行く

昨年は6月25日に千葉公園の大賀蓮(おおがはす)を見に行っている(6月26日のブログ参照)。「極楽浄土に咲く花にふさわしく上品で心が安らぐ見事な花である」と感想を記している。(今日の朝ドラでも,蓮に関して同じような感想が述べられていた)

今年は一昨日(6月21日)見に行った(車で10分)。昨年と同じような感想を持ち、その美しさと上品さに感銘を受けた。ただ、行ったのがお昼近くだったので、咲き切ったという花もいくつかあり、やはり蓮は早朝に見に行った方がいいと思った。早朝や午前中の凛とした光と空気の中で、花も凛として咲き、見る者の気を引き締めてくれる。

藤原新也のオリンピック新聞記事を読む

藤原新也のオリンピックに関する記事が今日(6月22日)の朝日新聞に掲載されていた。久しぶりに藤原節を聞く(読む)思い。11年前、上海の万博を見にいった折、それ以前の上海の光景が一変していることに驚いたことを思い出した(2010年7月20日ブログ参照)。(新聞記事を一部転載)

「風景を人を、変えてしまう五輪 祭りの影で土着文化を破壊、今なお 写真家・作家、藤原新也さんに聞く」

 <開催の賛否をめぐる議論の図式には正直、食傷気味でもある。少し遠い時空へ思考をめぐらせてみたい。1976年。韓国・ソウルから列車に乗り、慶尚北道へ向かう車窓で美しい農村風景が目に飛び込んできた。ありふれた田舎かもしれないが、おとぎの国に見えた。後年この奇跡的な出あいの写真に「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過(よぎ)ることがある」と一文をつけ、著書『メメント・モリ』に収めた。/ (中略)/ 以降、韓国へ行くたびに訪ねたが、90年に足を運んだとき、立ち竦(すく)んだ。見渡す限りの更地が広がっている。その2年前のソウル五輪を機に高速道路が開通し、役所がマンションを建て住民を立ち退かせたのだという。/ (中略)/ 五輪は風景を変え、人を変える。大義名分の下、すべてが進む。そこのけそこのけとばかりブルドーザーが風景を壊し、古くからの文化も人心も一緒に、一気呵成(かせい)に押しつぶしていく。/ 2011年。中国・上海の路地裏を歩いた。その3年前の北京五輪前後、北京の胡同(フートン)の取り壊しが話題になったが、上海でも古くからの庶民の住居群が五輪のために減っていた。/ これとまったく同様の変貌(へんぼう)が、つい最近の東京でも起きたことを、人はもう忘れているのではないか。18年に豊洲に移転し、跡地が大型駐車場に変わった築地市場である。/ 欧州の貴族文化に端を発した近代五輪が、華やかな祭りの影で世界の土着文化を破壊していった「裏の歴史」。それは今も、厳然と積み重ねられ続けている。/(中略)/IOC(国際オリンピック委員会)の重鎮による屈辱的発言が報じられたが、黙りこくった為政者の姿を見るにつけ、英語なら単純にOlympic Flameと言うところ、「聖火」と神がかった語を使う日本社会を考えさせられた。 そこには喜々として一丸となり、五輪を崇(あが)め奉る、独特の感性がないだろうか? 先進国に仲間入りする関門としての初開催から半世紀余、なお後進国的な心性は変わらない。(以下略)>

初夏の検見川浜

6月も下旬になり、夏の暑さを感じる日々である。今日(6月21日)の午後、梅雨の晴れ間も見えたので、検見川浜の海岸を少し歩いてみると、風はなく海は穏やかで、ウインドサーフィンは波間に浮かぶだけ。日光浴をする人もちらほら見られた。夏の日差しが暑く、もう昼間には海岸散歩はできないなと感じた。海岸散歩はこれから朝か夕方に限られる。

https://www.pref.chiba.lg.jp/cs-chiba-k/kankou/kemigawa.html

ペットの値段、価値

最近ペットショップに寄って犬や猫を見ると、値段がとてつもなく上がっていて驚く。もう15年くらい前になるが、うちでキャバリヤ犬をペットショップで購入した時、値段は数万円だったと思う。最近同じペットショップでキャバリヤ犬が売られていて値段を見たら50万近くし、ワクチンなど諸費用を入れると60万円になっていた。他の犬種や猫も同じように高値になっている。

ペットの値段が高いというのは、必ずしも悪いことではない。ペットは玩具やぬいぐるみとは違い生き物であり、そう安易に飼うことはしない方がいい。人の子どもほどではないにしても、世話が毎日大変で、手はかかる。犬の場合、毎日何回かの外の散歩は必須である。時々毛のカットやシャンプーも必要だし、夏の蚊対策も必要だし、避妊手術も必要の場合がある。病気にもよく罹るので、病院通いが必要になる。ペットの病院代は高額である。ペットの一生を考えると買ったペットの生体の値段より病院代の方が高額になる。知り合いで、野良犬を飼い、一回の手術・入院に200万円はかかったという人もいる。

このようにペットを飼うということはお金がかかり、ペット買うことができるのはお金持ちだけで、ペットを飼うことはステータスシンボル(高い地位表示)になっている。ただ、そのようなことだけでなく、実際ペットのお陰で、飼っている家では大人も子どもも心理的な安定を得て、毎日の生活が豊かになる。ただ、ペットの老後の介護も大変である。ペットも歳をとり足腰も弱り、目も擦れてきた犬が、懸命に散歩している姿を見ると、人も頑張らなくてはと励まされることはある。その意味では、ペットにはお金には代えられない価値がある。でも人とペットの老老介護はできない。

寺崎昌男著『大学教育の60年』(評論社、2021.4)を読む

東大名誉教授の寺崎昌男先生よりご著書『大学教育の60年』(評論社、2021.4))をお送りいただいた。先生は、1932年(昭和7年)福岡県出身、東京大学教育学部、大学院を卒業され、これまでに大学は東京大学、立教大学、桜美林大学奉職されている。清水義弘先生より少し後の世代で、麻生、潮木、天野先生らの少し先輩にあたる。先生には多数の著書があり、「日本教育学会」や「大学教育学会」の会長を歴任されている。私は先生が中央教育研究所の理事長をされているときご一緒させていただいた。先生の生育史や研究史に関しては、これまでのご著書や中央教育研究所でのお話(講演)等でお聞きしたことはあったが、今回このご著書を読ませていただき、新たなことがたくさんわかり感激した。

寺崎先生の就職までのご苦労や、博士論文を仕上げるまでの苦労の話は圧巻で、先生ほどの人がこれほど苦労するのかという驚きも禁じえなかった。先生の卒論のテーマが「明治初期の高等教育と学生との関係」ということも今回、はじめて知り、現代の学生の文化に関心を持ち、いくつかの調査をしてきた私としては、先生との近さを感じた。大学での行き違いで、ご指導を受けられなかったのがとても残念と感じた。

寺崎先生が卒業されまた教えられた東大の講座は教育学科教育史・教育哲学コースである。今は(比較)教育社会学コースでも歴史的な研究は盛んで、その橋渡しをされたのは、寺崎先生ではないかと思った。教育社会学の潮木守一先生や天野郁夫先生が、寺崎先生が主宰された「大学史セミナー」に参加されている。天野先生の指導で、私より下の世代(吉田文、広田照幸、浜名篤の各氏他)が社会史の研究に進むようになったと思う。

寺崎先生が学部時代のゼミの担当教官が教育史教育哲学コースの大田尭教授たったというのははじめて知り驚いた。教育社会学の清水先生は、史哲の先生方とは仲が悪く、大田尭先生のこともあまりよく言っていなかったと思うが、私の助手時代、清水先生のお供をしてお昼にお蕎麦屋に入ったところ、太田先生がいらして、清水先生が弟子たちに見せたことのない親しげな様子で大田先生と話しているのを横目で見て驚いたことを、今でも鮮明に覚えている。(あれは同期意識だったのだろうか)

ご著書の中に出てくる先生方の名前がとても懐かしく、半世紀以上も前のことが、少し前のことのように思い出される。私の教えを受けた下記の先生方の名前が出てくる。                        私の駒場時代は、清水、持田、細谷教授の「教育原理」の授業を受け、宗像教授の特殊講義を受講し、潮木講師の演習を受講した。私が本郷の3年次に進学した時は、教育社会学の研究室は、牧野教授が退官された後で、清水教授、松原助教授の体制ができたばかりの時である。学部3年次には、両先生の教育社会学の授業の他、大田教授の「教育学概論」や、仲教授の「教育史概論」、岡津教授の「教育内容」の授業を受けた。学部4年の時の私の教育実習をわざわざ市川の中学校まで見に来て下さったのは学校教育の稲垣助教授であった。大学院時代は、麻生先生が非常勤講師でいらしていた。助手時代は、助手会というのがあり、学科の垣根を越えて集まり一緒に旅行までした。確か教育史哲は田中さん、教育行政は黒崎さんであった。また著作に出てくる方では、立教の浜田陽太郎先生やのことが思い出される。浜田先生の東京教育大の移転に反対されて退職された浪人時代や立教の総長の時代など少し前のことのように思い出される(総長の車に乗せていただいたことがある)。また、私は学生文化のことで、学会や広島大学の大学教育研究センターで報告した時、喜多村先生が声をかけて下さり、いろいろアドバイスをいただいた。

本書は『大学研究の60年』という題で、「大学のことは教育学者の研究対象ではない」といわれた戦後の時代の中で、先生がいかにして、大学や高等教育を教育学の研究対象にしていったかの歴史を、先生の自分史から書き下ろしたもので、「東京大学百年史」の編集(委員長)や「東洋大学百年史」の編集、「立教大学全学共通カリキュラム」の作成他など、高等教育研究や大学研究のことが多く紹介されている。高等教育研究としても、また卓越した研究者の自分史としても読める読み応えのある著作である。