夏の終わり(その2)

この4連休は、高速道路が混雑しているという。この夏に旅行をできなかった人や、お盆に帰省できなかった人が、その埋め合わせをしようとしているのであろう。

千葉県の高速道路も首都圏ほどではないにしろ、かなりの混雑で、外房の九十九里海岸も、それなりの人が出ていた。ただ、例年の夏の賑わいはなく、夏の終わりの侘びしさと、秋の気配を感じた。

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夏の終わり

一つの季節の終わりに、生きた証を残しておこうと思うのか、季節の花はその季節の終わりにたくさん咲くことをする。朝顔の一咲が、夏の終わりを告げている。

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今 学歴社会は?

かって日本の教育の諸悪の根源は「学歴社会」にあると考えられた時代がある。それだけ、就職や昇進に学歴がものをいい、学歴競争も激しかったのであろう。今はどうなのであろうか。都市の高所得者層の子どもを中心に早期の「お受験」はあるにしても、高校受験、大学受験に関しては、かってほど競争は激烈ではないのではないか。高い学歴が人の将来を保証しなくなっている。

今回の新総裁選や新しい内閣の大臣選出の新聞報道を見ていても、その候補や閣僚の学歴に言及されることはなかったのではないかと思う。学歴の価値の低下が伺われる。ただ、9月17日の「朝日新聞」の朝刊で、新内閣の名簿を見ると、そこには出身大学が記載されていた。(ただ、そのことへの言及はない。読売新聞と日経新聞にも同様に、閣僚の学歴が掲載されていた。)

それで大臣の出身大学を見てみると、米国の大学4名(ハーバード大学院2、コロンビヤ大学院1、ジョージタウン大1)、東大4名、慶大3名、その他の私大8名(早稲田1、上智1、明治1、法政1、学習院1、中央1、玉川1、日本1)、千葉大1名、高卒1名 である。

大臣の日本の出身大学は東大は4名とそれほど多いわけではなく、いろいろな大学に散っている。アメリカの大学・大学院が4名と多いのが目立つ。それから、大臣の出身県はさまざまであろうが、出身大学が日本場合、全て首都圏(それもほとんど東京)というのは、偏りを感じる(地方国立大も地方の私学の出身者も皆無である)。政治の世界は特殊な世界で、大臣の出身大学から、日本の学歴主義の傾向を判断することはできないと思うが、何か今の社会の傾向を表しているようにも思える。

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韓国ドラマ「彼女はキレイだった」を見始める

2015年の韓国ドラマ「彼女はキレイだった」をネットフリクスで見始めた。最初「なんか失礼な題だな」と思ったが、ストリーを知って納得した。女性が「キレイ」ということはどういうことなのかといろいろ考えさせられた。男はキレイな女性に惹かれるのは古今東西普遍的のようだが、それはなぜなのだろう。(女性がイケメンの男子に惹かれることもあるが、男のそれには及ばない)。

第1話のストリーは次のよう。<(ヒロイン)ヘジンは小学生のころ相思相愛だったソンジュンがアメリカから帰国するとのメールを受け、(親友)ハリに待ち合わせ場所まで送ってもらう。そこに現れたソンジュンは肥満児だった過去をみじんも感じさせないイケメンに成長しており、正反対の残念な女性に成長した自分を恥じたヘジンは、(超美人の)ハリに自分の代役を頼み…。>

最近大人気の韓国ドラマ「梨泰院クラス」の中卒で前科者で飲み屋の社長の男ぽいヒーローのパク・セロイを演じたパク・ソジュンが、このドラマではアメリカ帰りの育ちがよくかっこいいイケメンを演じていて、最初その育ちの品のよさから同一人物とは思えず、思わずネットで調べてしまった(パク・ソジュンが好きな女性ファンにはたまらないであろう)。

女性が綺麗であると男からちやほやされることが多いが、それに奢れることなく、懸命に生き、いい性格ややさしい心情を保持することは難しいのではないか。その点そうでない女性の方が、努力家でいい性格でやさしい心根の人が多い(、と私は思う)。ところが愚かなことに、男は美人の方に惹かれる。

「彼女はキレイだった」のヒロインは、そのことがわかっていて、幼馴染のイケメンに自分の正体を明かせず、超美人の友人に代わりになってもらう。そこに悲しみがないわけではないが、持ち前の元気さと笑いで吹き飛ばすのが、このドラマの魅力である。

<追記>もちろん女性が綺麗になるように努力することは、自分の顔や体を素材に美を追求することであり、画家がキャンバスを素材に美を追求するのと変わらないことで、非難されるべきことではない。また男が女性の綺麗さに惹かれるのは、美しい絵や美しいものに惹かれるのと同様で、自然なことであると思う。

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書評について

学会誌や新聞などで、書評をみる機会が多い。書評の書き方のルールがあるのであろうか。一般的には、本の概要を紹介してそれに若干のコメントを加えるというものだと思うが、評者はそれだと面白くないと思うのか、書評を利用して持論を展開するひともいる。慇懃無礼な書評もあるし、見当外れの酷評を書き、著者の逆鱗に触れるものある。学会誌では、著者に反論を書く機会が与えられる場合もある。いずれにしろ、人と人との意見の交換なので、難しいところがある。

新聞などの書評は、内容の忠実な紹介や批判よりは、読者がその本を読みたくなるような書き方が要求されるのではないか。大新聞は著名な人は書評を書いているので、その書き方が皆上手で、読みたくなるものばかりで困る。今毎週土曜日の朝日新聞朝刊には教育社会学の本田由紀・東大教授がよく書評を書いていて、その選択の本が興味深く、さらにその視点、構成、文章が巧みでいつも感心する。新聞で本田教授が取り上げている最近の本は、下記のである。そのいくつかを、記録にとどめておく。(朝日新聞デジタルより転載)(www.asahicom.jp/articles/

(本田由紀・書評本、最近のもの)『科学の人種主義とたたかう』 アンジェラ・サイニー〈著〉(2020/09/12)/『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉(2020/08/29)/『悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治』 エイコ・マルコ・シナワ〈著〉(2020/08/22)/『「山奥ニート」やってます。』 石井あらた〈著〉(2020/08/08),/『新自殺論 自己イメージから自殺を読み解く社会学』 大村英昭、阪本俊生〈編著〉(2020/07/25、/『道行きや』 伊藤比呂美〈著〉(2020/07/11)、/『学校の社会学』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉(2020/07/04)/『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』 田野大輔〈著〉(2020/06/20)/『鉄筆とビラ』 都立立川高校「紛争」の記録を残す会〈編〉(2020/06/06)/『校歌の誕生』 須田珠生〈著〉 『音楽文化 戦時・戦後』 河口道朗〈著〉(2020/05/23)/『保健室のアン・ウニョン先生』 チョン・セラン〈著〉(2020/05/09)/『先生も大変なんです いまどきの学校と教師のホンネ』 江澤隆輔〈著〉(2020/04/25)/『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』 レベッカ・ソルニット〈著〉(2020/04/11)

(書評)『パンデミック 世界を揺るがした新型コロナウィルス』 スラヴォイ・ジジェク〈著〉/ 野蛮を脱する世界連帯の未来像/ 本書の原著は、新型コロナウイルス感染症(COVID―19)の世界的流行が顕在化してきた、今年2月から3月にかけて執筆されている。それが急遽(きゅうきょ)刊行され、さらに翻訳されて、7月に日本でも出版された。/ 驚くべきは、流行の早い段階で短期間に書かれた本書には、全人類を脅かすウイルスがもたらす社会的・経済的・文化的な影響と、それをいかに乗り越えてゆくべきかについて、私たちが考えなければならないことがきわめて包括的に論じられていることだ。/ 感染拡大をめぐり、国家はときに情報を隠したり歪(ゆが)めたりする。しかし危機のもとでは、独裁もポピュリズムも役には立たない。環境破壊は新しいウイルスの流行をこれからももたらし続ける。従来の市場メカニズムは十分に機能しなくなり、生産や流通を市場以外の方法で調整しなければならなくなる事態も生じる。「我々はみな同じ舟に乗っているのだ」。共通の脅威を前に、資本主義にしがみつくのでも、国家間対立でもなく、世界的な連帯こそが必要だと著者は述べる。/ より身近な生活に目をやれば、外出や営業が制限される中でも、いわゆるエッセンシャルワーカーは仕事を続けなければならない。感染症患者を受け入れる医療の現場では負荷と疲労が極限まで増大する。それは、テレワークで安全に隔離された「クリエイティヴなチーム業務」における利益や昇進をめぐる競争とは全く異なる性質の疲労であり、著者はその疲労が報われるべきだと主張する。/ 描かれる新しい「共産主義」が夢想にすぎないと冷笑されるであろうことも著者はお見通しである。しかし、ロックダウンに際しての補償、検査キットの製造と供給などの形で、生命と生活を維持するための非市場的な施策はすでに現実化している。パニックと野蛮を脱してその先に進むことを選ぶのであれば、著者の掲げる未来像から目を背けることはできない。 評・本田由紀(東京大学教授・教育社会学)

 (書評)『学校の社会学-フランスの教育制度と社会的不平等』 M・ブランシャール、J・カユエット=ランブリエール〈著〉/ フランスの教育社会学といえば、ブルデューやブードンの研究が著名である。しかしそれ以外は英語圏の研究が参照されがちな中で、本書は近年のフランスの教育の動向と多様な研究成果を、「不平等」を軸に包括的に紹介している。/ バカロレア(大学入学資格試験)の取得率は増加したが、家庭背景や性別などによる進路選択の偏りは残る。複雑に分岐した教育制度と、減少したとは言え留年の仕組みをもつフランスでは、不平等を把握するために多様な指標を用いる必要があり、そこが研究者の腕の見せ所(どころ)となる。/ 進学率が上昇しても相対的不利が続くことを表す「引き延ばされた排除」など、普遍的有効性をもつ諸概念が目を引く。/ 訳は硬めで、他の言葉を充てた方がよいのではと思われる箇所もあるが、「教育格差」が話題となっている日本の現状と照らし合わせて読むことで、現代における教育の隘路への理解が深められるだろう。(評 本田由紀)

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