相手を思いやるということ

「相手を思いやる」や「相手の立場に立って考える」ということは、道徳教育の項目にもあがっているし、多文化教育の「転換アプローチ」(相手の立場から考える)もそうであり、重要なことである。しかし、実際はどの次元で考えればいいのかが難しい。こちらが相手のことを思いやって言ったり行動したりしても、その言動が理解されず、恨まれる場合がある。さらにややこしくなるのは、相手もこちらを思いやり、言ったり行動したりする場合である。お互いに相手を思いやり、譲り合い、謝り、感謝しあうのであれば問題がないが、その思いやりが相手を傷つける場合がある。それも、相手を思うゆえにである。

親がゲームばかりしている子どもを叱り、ゲームを辞めさせるのは、ゲームをしたいという子どもの意向を禁止する思いやりのない行動ではなく、子どもの将来を考えた思いやり行動である。自分に片思いの相手に冷たくするのは、相手に自分に対する未練を早く断ち切ってふさわしい人を探してほしいという思いやり行動である。これらの思いやりが今相手に理解されなくても、将来理解されれることを願う。。

今評判の韓国ドラマ「愛の不時着」の何話かで、恋人同士がお互いに、警察で自分が罪を被り、相手が罪を免れるような供述をする場面がある。二人はそれぞれ自分を犠牲にしての相手の幸せを願って、このような供述をする。ところが、相手の為を思って自分がした供述(罪は自分の側だけにある)は、自分の幸せを一番願っている相手の願望を真っ向から否定するものである。お互いに相手の為を思った供述が、相手を深く愛する二人故に、お互いの思いとは逆の結果を招く(浅いレベルでは、相手は罪を免れ幸福になるかもしれないが、自分の幸福を何よりも願う相手の願望を否定する)。それでお互いに、死ぬほど傷つく場面がある。(囚人のジレンマの逆?)

シエル・シルヴァスタイン著・村上春樹訳『おおきな木』(あすなろ書房、2010)では、リンゴの木は少年が好きで。その願いをかなえることに生きがいを感じている。少年に、自身(リンゴ)の実、枝、幹を提供し、自分は切り株になっても後悔はしない。少年の為になることが至上の願望だからである。一方少年は、そのリンゴの願望を当たり前のことと考え、リンゴの木が自分に幹まで提供し切り株になっても、それがリンゴの願望をかなえることなので、悪いことをしたという意識はない(読者もそう読む)。

この「愛の不時着」と「大きな木」の意識の違いは何なのであろう。前者は恋人同士であり、後者は母―子関係だからであろうか。前者は対等であり、後者は母親の子どもへの無償の愛が前提になっているからであろうか。(ドラマ「屋根裏のプリンス」の場合、片思いの側の相手への無償の愛の要素もあり、後者に近い面もある。)このように、ものごとには、深さもあり、相手の気持ちもあり、一筋縄ではいかない。

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韓国ドラマ「屋根裏のプリンス」を観る

韓国ドラマ「屋根裏のプリンス」(2012年)全20回を、アマゾンで観た。「前半は抱腹絶倒、後半はサスペンスと涙の連続」というのが一般的の評のよう。私は、見終わるのに2週間はかかった。ラブコメとして楽しめばいいドラマのようであるが、シリアスなドラマとしてみると、少しストーリーに無理を感じる。ヒロイン(ヘン・ジミン主演)の自己犠牲や輪廻の考え方に魅かれた。

ヒロインの名前は、プヨン=パク・ハで、それは蓮の花を意味ずる。「生きて死に、死んで生きるものは何か?」という謎かけがドラマの中であったが、その答えが蓮の花。蓮の花は咲き終わると朽ちて土にまみえるが、次の花の糧になり生きる。このように蓮の花は自己犠牲に徹し、美しく咲き、哀しく散る。

私は別に輪廻転生を信じるものではないが、このドラマが輪廻転生のドラマであり、その象徴である蓮の花の名前のヒロインの自己犠牲や、 七夕の輪廻転生(天の川) や、先日千葉公園で観た蓮の花の美しさが、何か繋がっているように感じ、惹かれるものがあった。

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概論が先か、具体的な事例が先か-第10回 教育基本法

大学の授業で、最初に概論的ないし理論的な話をして、その後で各論的ないし具体的な話をした方がいいのか、あるいはその逆に最初に各論・具体的な話をして、後から全体的・理論的な話をした方がいいのか、迷うところである。

一般には、教師の考えは前者であろう。すなわち概論・理論が先、各論・具体が後のような気がする。しかし、学生にとって、前半の概論・理論の話は面白くなく、理解できす前半でその授業自体を聞く気をなくし、後半の各論・具体的な話の頃は耳を傾けなくなっているのではないか。それならば、最初に各論・具体例で、学生に興味を持たせ他方がいい。

そのようなことを感じたのは、「教育原論」の授業で、「教育基本法」のことを取り扱った時のことである。「教育基本法」は、日本の教育のあり方の理念や教育目標に関して、網羅的に述べられたもので、その後の具体的な教育実践の指針となるものである。教育のさまざまな具体的な事象が、この教育基本法の文言から発している(音楽で日本のわらべ歌が多く取り上げられるようになったのは基本法で愛国心が強調されたてからである等)。

したがって、「教育原論」のように教育の基本の話をするのであれば、まず「教育基本法」の話からすべきであろう。今回私は「教育基本法」のことを説明したのは、15回の授業の中の10回目である。それ以前に、家庭教育や潜在的カリキュラムやいじめ問題等の具体的な教育問題を取り上げている。その後、「教育基本法」を読んでもらうと、学生たちはそれ以前に学び考えた教育問題を、教育の全体像の中に位置けていることを、学生のコメントから感じることができた。(下記に一部転載、一部添付)(講義資料は添付)

<教育とは学校教育だけでなく、家庭や宗教などの様々な教育があるということを改めて実感した。これは、子どもは学校だけでなく家族や地域の方など沢山の周りの支援があってこそ良い教育を受けられるということなのだと感じた。多くのことが書かれている中、私は教育の目的及び理念第2条の「個人の価値を尊重して、その能力をのばし、創造性を培い、自主および自律の精神を養う」というところに興味を持った。生きていく中では、様々な場面で個人の価値を尊重することは大切になる。そして学校教育ではその基盤を形成する時期であり、そこで間違った道に進んでしまえば基盤もぶれてしまう。だが、教員はひとりで何十人もの児童を相手にしなければならないので、ひとりひとりの人格の基礎を築くことはとても大変である。よって大切なのは児童の周りの大人であり、特に家族にとって我が子の正しい人格形成は義務のようなものなのではないかと思う。しかし、そこで親の理想を押し付けてしまったり、過保護になりすぎたりしてしまうと、教育に悪影響を及ぼしてしまう。よって、親や地域の方にもしっかり教育基本法の内容に目を通し、一丸となって子どもを立派な大人にする社会が望ましいと考える。そして、教員としてできることは、時間の許す限りひとりひとりと向き合い、いじめのない環境を目指すことだと思う。成績の面でもパーソナリティーの面でも、家族の次に大きな影響を与えるのは教員である。しかし、前回の授業でいじめの酷さを知り、どうすればいじめのない夢のような教育環境を作ることができるだろうと今はそれを考えるばかりである。>

<私が教育基本法について関心を持ったところは、第一章「教育の目的及び理念」の中の第二条です。理由は、小学校や中学校の頃を思い出すと一から五までをきちんと体験していたなと感じたからです。1つ目の項目の幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を養うこと。と書いてありますが、国語や算数を初めとする基礎知識を身に付け語彙などを増やしていき、道徳では映像やプリントの配布が行われて誰かの心情を考えてみたり、意見を交換したりして相手の気持ちや意見を受け入れたりすることなどをしました。この体験が1つ目の項目に当たると考えます。2つ目の項目のところでは、地域のお店をインタビューして新聞を作ったり、中学では職業体験をしたりして職業についての理解を深めることで自分が将来なりたい職業や仕事の大変さなどを学んだなと思い出しました。こうして振り返ると先生方は私たちの未来のために懸命に取り組んでくださっていると改めて感じました。そして、この教育基本法がなければ平等な学力の水準が保たれないことを改めて強く感じたので自分が教員になった際には、子どもたちの未来の形成のためにきちんと教育基本法に沿った指導ができるように勉学に励みたいと思いました。>

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もう7月ーもうすぐ七夕

歳をとってくると季節感も薄れてくるが、幼稚園など幼児のいるところでは、日本の年中行事がまだ生きている。もうすぐ7月7日の七夕祭り。5歳の幼稚園児が七夕の短冊に書く言葉を考えていた。母親に「K坊の願いは何?」と聞かれ、「死にたくない、永く生きたい」と答えていた(きっとゲーム好きなので、そこから出てきた願い)。「じゃぁ 短冊に書くのは『ふじみ(不死身)になりたい』がいいじゃない」ということで、5歳児は短冊に「ふじみになりたい」と書いて、幼稚園に持っていった(先生や友達から「ふじみ、って、なあに?」と聞かれたらしい)

「七夕ってなあに?」と5歳児に聞かれた時に備え、その由来をネットで調べた。(https://omatsurijapan.com/blog/tanabata-family/ )

「五節句の一つ。天の川の両脇にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、七月七日の 夜、星を祭る年中行事。中国由来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の神を待つ「たなばたつ め」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。 庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫の上達を祈る。」(広辞苑)

「七夕は、昔、中国から日本に伝わった星祭りです。ひこ星と、織りひめという男女の星が、天の川をはさんで向かい合っていて、この2つの星が、1年に1度、7月7日にだけ会えるという言い伝えから、祭りが始まりました。」「“はた織りが上手な神様の娘『おり姫』と働き者の牛飼いである『ひこ星』は、神様の引き合わせで結婚し仲良く過ごしていましたが、楽しさのあまり仕事をせずに遊んでばかり。激怒した神様は天の川の両端に引き離してしまいましたが、悲しさのあまり元気をなくした2人を見かね、7月7日を年に1度だけ会える日として許しました。”」「夏の夜、8時ごろに東の空を見上げると、3つの明るい星が見られる。それらの星を線で結ぶと大きな三角形ができる。これを「夏の大三角」という。(中略)ベガは織りひめ、アルタイルはひこ星にあたる。これらの星は7月7日ごろにいちばんよく見えることから、七夕の言い伝えが始まった」(21世紀こども百科、小学館)

ついでに、以前に紹介したことがあるが、「天の川」という曲で、七夕の歌と季節の花や景色などの写真(安藤信作撮影)が載ったものがあるので、再掲しておく。その内容は「現世と来世が円となってて 廻り巡って 縁で運命の人と巡り合う というメッセージ」。 その歌詞は、下記。

くるり ゆらり 
まわりゆく / ひらり はらり 
舞い散る花 
 / 春の夢に包まれて 
/ ほのか朝ぼらけ / 旅人は縁の中 巡り歌う 
/ 睡蓮の花飾り 置けば道しるべ -/ ほろり きらり 頬伝う 
/ 祈り灯り 笹舟に 
/ 二人共にカササギの  / 渡せる橋を渡る / 旅人は縁の中 巡り詠う 
/ 短冊を星空が 照らし 願ひ 満つ 
/ 青く 淡く 赤く 熱く 遥か 遍く / 引き合い 燃え尽きぬ炎よ / ほろりきらり 頬伝う 
/ 祈り灯り 笹舟に /二人共にカササギの  
渡せる橋を渡る 
/ 祈り 灯りゆく  (AO AKUA  天の川)

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教育原論 第8,9回 いじめ

敬愛の教育原論第8回・9回は学校におけるいじめ問題を扱った。資料としては、①文部科学省の白書のいじめの箇所(定義)、②森田洋司の「いじめの4層構造」、③大河内君のいじめ自殺とその遺書などである。将来教員を目指すものが多い敬愛大学の教育こども学科の学生は、いじめやいじめられの経験は少ないものの、いじめ事件、とりわけ大河内君などの酷いいじめ事件などを知ると心を痛め、教師のいじめ防止への役割の重要性を再認識する。

<私は今までいじめたりいじめられたり、また観衆や傍観者になったこともない。それは小学校の時に道徳やピアサポートの授業で「いじめはいけないものだ」と強く言い聞かされていたからである。いじめに直面した経験がないため、大河内君の遺書や、それに対する学校側の対応を読み、こんなにも酷いいじめが中学生ないしは小学生にも起こっていることに驚き、それと同時に怒りを覚えた。優しい家族がいながらも相談できないほど怯えて生活していたことや、遺書の中で被害者である大河内君が何度も謝っていることなど、読んでいて胸が痛くなった。いじめていた側はお金を巻き上げることや、川で溺れさせるなど、もはやいじめの枠では収まらない犯罪行為をしている。それを止められる人は絶対にいたはずである。それが森田洋司さんの「いじめの四層構造論」にあるような観衆と傍観者だと思う。いじめを止めたら自分が標的になってしまうのではないかという恐怖心があるとよく聞くが、そんな考え方を覆せるのが教育だと思う。私は小学校で「いじめに関わる人は加害者・被害者・盛り上げる人・見て見ぬふりをする人がいる」と習い、いじめに直接かかわっていなくても加害者だという認識を持っていた。それは私だけでなくクラス全体がいじめはダメだと理解していたと思う。そのように学校での教育によっていじめに対する考え方は決まってくると思う。また、「いじめられて死ぬのは甘えだ」といった意見があるが、それには全く同意できない。いじめは人を傷つける行為であってしてはいけないという考えを理解していればいじめが起こることはない。仮に起こったとしても、いじめはいけないことと理解している人が多ければ観衆は盛り上がらず、傍観者はいじめ反対者になり、止めることだってできる。また、被害者の味方が増えることで助けを求められて死を防ぐことだってできる。このような考えから、「いじめの四層構造論」の、いじめが盛り上がるのか、収まるのかは観衆と傍観者で決まるという意見に同感する。>(H)

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