風の便り75号

辻秀幸氏より、元旦に「風の便り」75号が送られてきた。お正月にふさわしく、冬の花の比較・見分け方の話で、花の写真も華やか。うちの庭にも椿(ツバキ)とサザンカは,今の季節赤い花を咲かせている。何となくツバキとサザンカの区別はできる。辻氏の考察は、きわめて学術的なもので感心した。チャトGPTにも聞いてみた。

質問―椿(ツバキ)とサザンカと夏椿の違い、その見分け方を教えて下さい。

Chat GPT:の回答―椿(ツバキ)、サザンカ、夏椿(ナツツバキ)はいずれもツバキ科に属する植物ですが、それぞれに特徴的な違いがあります。以下にその違いと見分け方をまとめます。/1. ツバキ(椿)花の特徴-花は早春(1~4月頃)に咲きます。花弁はしっかりしており、花が散る際は花全体がぽとりと落ちるのが特徴です。花色は赤、白、ピンクなど多様で、八重咲きの品種も多いです。葉の特徴-葉は濃い緑色で厚みがあり、光沢があります。その他の特徴-樹高が高くなりやすく、庭木や茶花としても利用されます。/2. サザンカ(山茶花)花の特徴-花は秋から冬(10~12月頃)に咲きます。花弁は薄く、花が散る際は花びらがバラバラに落ちます。ツバキよりも花が小ぶりで、白やピンクの花が一般的です。葉の特徴-葉はツバキよりもやや小さく、縁に鋸歯(ギザギザ)がはっきり見られます。その他の特徴-サザンカは生垣としてよく利用され、成長が早いのも特徴です。/3. 夏椿(ナツツバキ)花の特徴-花は夏(6~7月頃)に咲きます。白い一日花で、中央に黄色い雄しべが目立ちます。清楚な印象です。花が散る際はツバキと同様にぽとりと落ちます。葉の特徴-葉は柔らかく、縁に鋸歯があります。その他の特徴-樹皮が特徴的で、紙を剥がしたように剥離する模様が現れます(「サルスベリ」に似ています)。高温多湿を嫌うため、涼しい環境でよく育ちます/見分け方のポイント-開花時期で区別-ツバキは春、サザンカは秋~冬、ナツツバキは夏に咲く。花の散り方で区別-ツバキとナツツバキは花全体が落ちるが、サザンカは花びらがバラバラに散る。葉の形と鋸歯の有無-ツバキは葉が大きく光沢が強い。サザンカとナツツバキは葉に鋸歯があり、サザンカの方が小さめ。樹皮の特徴(ナツツバキのみ)-ナツツバキの樹皮は剥離する特徴的な模様があります。これらの特徴を観察すれば、それぞれを簡単に見分けられるようになります。興味深い点があれば、さらに掘り下げて説明します!

餅つきの意味

世の中のことでわからないことは多い。たとえば年中行事のことでも、慣行どうりやりながら、何故そのことをするのかはわからないことが多い。今日〈30日〉、近所で餅つきをしている家があり、その前を通りかかり、一緒にいた孫は餅つきをやらせてもらい(下記写真)、私までお餅をいただいた。つきたてのお餅は柔らかく美味しかった。家に帰り、WEBで、何故年末に餅つきをし、お正月に餅を食べるのかを調べた(その一部を転載する)。」

<お正月が近づくと餅つきをするところも多いはず。そこで、餅つきの意味や由来・歴史・時期などを解説します。/ 日本には稲作信仰というものがあり、稲は「稲魂」や「穀霊」が宿った神聖なものだと考え、崇められてきました。稲から採れる米は人々の生命力を強める神聖な食べ物であり、米をついて固める餅や、米から醸造される酒はとりわけ力が高いとされています。そこで、祝い事や特別な日であるハレの日に、餅つきをするようになりました。餅つきは一人ではできないため、皆の連帯感を高め、喜びを分かち合うという社会的意義もあります。/とりわけ日本の行事文化の大黒柱であるお正月はお餅が重要な役割を果たすので、年末に餅つきをするようになったのです。/ お正月のお餅には特別な意味があります。古来より、新年を司る「年神様」という神様が元日にやってきて、新年の魂(年魂)を授けてくれると考えられてきました。ここでいう魂とは、生きる気力のようなものです。魂を頂戴した回数を数えれば年齢がわかるため、誕生時が一歳、それ以降は元日に年をとる「数え年」が昔は一般的だったのです./ 年神様が依り付いたお餅には年神様の魂が宿るとされ、その餅を家長が家族に分け与えたのが「お年玉」のルーツです。年玉は年魂という意味で、鏡餅のほか、家族分の小さな丸餅を神棚に供え、それを下してお年玉としていたといわれています。このお餅をいただくための料理が「お雑煮」で、お餅を食べることで新年の力がつくとされてきました。>(暮らしの歳時記ガイド、執筆者:三浦 康子より抜粋)(https://allabout.co.jp/gm/gc/460433/)

カモメは何を食べ、どこで寝ているのか

以前にも何回か書いたことがあるが、渡り鳥のカモメが、近くの浜辺(検見川浜)で群れて佇んでいる姿を見ることが多い。パンやご飯の残りを投げてやると飛び上がってキャッチし、地面に落ちたものも喜んで食べる。一昨日(12月28日)検見川浜に行った時は、持っていったパンやご飯がなくなっても、「まだくれるのかな?」という顔をされ、慌てて近くのスーパーに食パンを買いに行き、1斤ほどちぎって与えた。満足した様子を見て安堵した。よく見るとカモメもとても可愛い。普段何を食べているのか、夜はどこで寝ているのか心配になり、ChatGPTに聞いてみた。(以下、その質問と回答)

質問―渡り鳥のカモメは昼間は海辺で群れをなし佇んでいて、パンなどをあげると喜んで寄ってきますが、自分で餌を探して食べている姿を見たことがありません。カモメは何を食べているのでしょうか。また夜はどこで寝ているのでしょうか?

ChatGPTの回答―カモメは主に魚や小さな海洋生物を食べています。群れで海辺にいるときでも、彼らは餌を探しやすい環境にいることが多いです。具体的には、浅瀬で魚を捕らえたり、砂浜でカニや貝類、小型の無脊椎動物を探したりしています。また、人間が出すゴミや食べ残しも餌として利用することがあります。そのため、都市部や港でも頻繁に見られるのです。/あなたが「自分で餌を探している姿を見たことがない」と感じるのは、彼らが餌を探す時間帯や行動が比較的短い場合があるからかもしれません。効率よく餌を見つけたらすぐに群れに戻ることが多いため、そうした行動が見られない場合があります。/夜はどこで寝ているのかという点についてですが、カモメは安全な場所を選んで眠ります。具体的には以下のような場所が多いです:①海や湖の水面―捕食者から身を守るために、水面で浮かびながら眠ることがあります。特に風が弱く穏やかな夜に見られます。②砂浜や岩場―海辺の静かな場所や岩の上で眠ることもあります。③人間の建造物―都市部では、建物の屋上や港の構造物などで眠ることもあります。/カモメは集団で行動することが多いので、夜も安全を確保するために群れで眠る傾向があります。また、夜間は休息しているものの、完全に深い眠りに入るわけではなく、周囲の危険を察知できる状態でいることが多いです。/まとめ-昼間の食事:魚、小型の海洋生物、カニ、貝、人間の食べ物など。夜の寝場所:海の水面、砂浜、岩場、建物の屋上など安全な場所。

KODAK Digital Still Camera

「リベラルな価値」や「客観的な事実」の危機

先の兵庫県の知事選挙やアメリカの大統領選挙で、既存メディアとSNSなどの新しいメディアの対立が話題になっていた。そのことに関しては、保守の哲学者の佐伯啓思氏が、わかりやすい解説を、朝日新聞に書いていて感心した(下記に一部転載)。今既存メディアの「リベラルな価値」や「客観的な事実」が問われているが、それはマスコミだけのことではなく、社会科学の学問の大前提であったものが、今揺らいでいるということであろう。たとえば、客観性が売りの社会調査より、私的な感情を入れて書くオートエスのグラフィーの方が、人々に説得力があるという現象も生じている〈2024年8月26日ブログ参照)。

(異論のススメ スペシャル)SNSが壊したもの 佐伯啓思  /  SNSが政治に与える影響は、日本でも、先ごろの兵庫県知事選挙において大きな話題になった。知事としての適格性が問われた斎藤元彦氏の再選は、SNS上の情報がなければありえなかったであろう。SNS情報が選挙結果を左右しかねないのである。 興味深いのは、ここで「既存のマスメディア」対「SNS」という構図ができたことである。新聞・テレビ等の既存のマスメディアは公式的で表面的な報道しかしないのに対し、SNS上ではマスメディアが語らない隠された真実、本音が語られるとみなされた。 もちろんSNS情報は玉石混交であり、その中には「隠された真実」が含まれているというのである。/ いうまでもなくこのような構図を最大限に利用したのはトランプ次期米大統領であ(る)。/ この「トランプ現象」の特徴は次のようなものだ。「既存メディア」は民主党のエリートに代表される「リベラルな思想や信条をもつ高学歴・高収入の人々」と結託しており、彼らは口先では自由・民主主義・人権・多様性などというが、実際は「リベラル派のエリート層」の利益を代弁するだけだ、とトランプ支持者はいう。SNSで流される一見むちゃくちゃなトランプ氏の独断の方が「真実」を突いている、と支持者はみる。/  欧米においても日本においても、「既存のマスメディア」は、基本的に近代社会の「リベラルな価値」を掲げ、報道はあくまで「客観的な事実」に基づくという建前をとってきた。そして「リベラルな価値」と「客観的な事実」こそが欧米や日本のような民主主義社会の前提であった。この前提のもとではじめて個人の判断と議論にもとづく「公共的空間」が生まれる。これが近代社会の筋書きであった。 SNSのもつ革新性と脅威は、まさにその前提をすっかり崩してしまった点にある。それは、「リベラルな価値」と「客観的な事実」を至上のものとする近代社会の大原則をひっくり返してしまった。民主政治が成りたつこの大原則が、実は「タテマエ」に過ぎず、「真実」や「ホンネ」はその背後に隠れているというのである。「ホンネ」からすると、既存メディアが掲げる「リベラルな価値」は欺瞞(ぎまん)的かつ偽善的に映り、それは決して中立的で客観的な報道をしているわけでない、とみえる。一方、SNSはしばしば、個人の私的な感情をむきだしのままに流通させる。/ 今日、公共性を成り立たせている、様々な線引きが不可能になってしまった。「公的なもの」と「私的なもの」、「理性的なもの」と「感情的なもの」、「客観的な事実」と「個人的な臆測」、「真理」と「虚偽」、「説得」と「恫喝(どうかつ)」など、社会秩序を支えてきた線引きが見えなくなり、両者がすっかり融合してしまった。「私的な気分」が堂々と「公共的空間」へ侵入し、「事実」と「臆測」の区別も、「真理」と「虚偽」の区別も簡単にはつかない。/ SNSのような「何でも表現できる自由なメディア」を称揚してきたのは、近代社会の「リベラルな価値」の信奉者である。とすれば、SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならないであろう。>(朝日新聞 2024年12月25日朝刊より一部抜粋)