大学におけるきめ細かい教育支援について、生成AIに質問する

文部科学省の「全国学生調査」の最近のデータをみていたら、4年制大学に比べ、短期大学の教育がきめ細かく学生に寄り添っていることにわかった。それなのに、今短期大学への進学希望者は減少し、募集停止する短期大学が続出している。学生に対するきめ細かい教育支援は必要がない、大学では学生をある程度自由放任にした方がいいということなのであろうか、と思った。その点を生成AIにしてみた。以下、その回答。

ChatGPT:の回答

大学における「きめ細かい教育支援」の意義 ― 短期大学の教育実践を手がかりに ―/ 近年、短期大学における学生支援の充実が注目されている。文部科学省の「全国学生調査(試行調査)」の結果からも明らかなように、短大では少人数制の下、個別性の高い教育指導が行われ、学生の満足度も高い傾向にある。履修指導、資格取得支援、日常的な教職員との関わりなどを通じて、学びのプロセスにおいて学生が孤立することなく、主体的に取り組めるような環境が整備されている点は特筆に値する。/ しかし、現実には短大の志願者は減少傾向にあり、募集停止や閉校を選択する短大も少なくない。この状況を単に制度的な淘汰や学歴志向の結果として片づけるのではなく、短大が有していた「学生に寄り添う教育文化」が、これからの大学教育においてどのように活かしうるかという視点から再評価することが求められている。/ 従来、大学教育においては「自由・自主・自己責任」といった理念が重視され、「学生をある程度自由に放任することが大学らしさである」といった意識が支配的であった。確かに、学問的自由や自己形成の場としての大学の性格を踏まえれば、過度な介入や管理は避けるべきである。しかし、実際の学生の実態を見ると、必ずしも全ての学生が高い自己管理能力を備えて大学に入学してくるわけではない。高校までの受動的な学びから十分に転換できないまま、大学生活に戸惑い、学修意欲や目標を喪失してしまう学生も多い。加えて、家庭環境や経済的背景の多様化、精神的・身体的困難を抱える学生の増加など、大学生支援のニーズは年々複雑化している。/ このような現状を踏まえると、大学においても、一定の「きめ細かさ」を持った学生支援の体制を構築する必要がある。ただし、それは小中高のような「管理型の支援」ではなく、学生の主体性や自律性を引き出すことを目的とした「支える支援」であるべきである。すなわち、授業では対話的・協働的な学修を促し、学外活動ではピアサポートや学生支援センターを活用して心理的・生活的安定を図り、キャリア形成においては早期から社会との接点を持たせることで、将来を見据えた自律的な学びを支援する。さらに、短大のように「顔の見える関係性」を重視する教育文化を4年制大学にも応用し、教職員と学生との信頼関係を基盤とする学修支援の在り方を模索していく必要がある。/ 現在、大学に求められているのは、自由放任による「自立の放任」ではなく、**主体的学びのための「環境的支援」**である。それは、学生を信じて突き放すのではなく、信じて支えるという姿勢に他ならない。短期大学の教育実践から得られるこのような示唆を、4年制大学教育の設計にも積極的に取り入れていくことが、これからの高等教育の質を高め、学生一人ひとりの可能性を引き出す鍵となるだろう。

大学の授業、卒論等は役立つのか、生成AIに尋ねる。

質問

「大学の授業は、卒論や卒業研究の為にあり、それに役立たない授業には出る必要がないと考えられた時代もある。大学の教員が学生の出席を取るのは野暮とされた大学もあった(京都大学)。卒論や卒業研究こそ、大学教育の集大成といえる。自分でテーマを決め、資料を探し、調査や実験をしてデータを集め、オリジナルな論稿を執筆する。」-この意見に関してどう思いますか? また大学の授業にほとんど出なかったという有名人は、村上春樹はじめたくさんいるように思います、大学の授業は、その後の人生に役立つのでしょうか?

ChatGPTの回答

非常に興味深いご質問ですね。以下、いくつかの観点から整理してお答えいたします。/ 1. 卒論や卒業研究は大学教育の集大成か?―基本的にはその通りです。大学教育の目的の一つは、「自分で問いを立て、自律的に調査し、論理的な結論を導き、社会に向けて発信する力」を育てることです。卒論・卒業研究は、それまでに蓄積してきた知識・技能・思考を統合して形にする場であり、教育成果の可視化でもあります。ただし、専門によっては卒業論文の代わりにポートフォリオや作品(芸術系)、実習やインターン(教育・看護・福祉系)などが中心になる場合もあり、「卒論が全て」とは一概に言えない点には注意が必要です。/  2. 「役に立たない授業には出なくていい」という考えは妥当か? これは古くからある議論です。「主体的な学び」を重視する立場からは、「受動的な座学」や「学生のニーズと乖離した授業」は時間の無駄という意見も理解できます。ただし、「そのときには役に立たないと思っていた知識が、後になって意味を持つ」ということも多く、知識の受容には「タイムラグ」があります。若い時期に多様な知見に触れておくことは、人生や職業選択の幅を広げるという意味で価値があるとも言えます。/ 3. 京都大学では出席を取るのが「野暮」とされたのか? これは事実として一定の根拠があります。京都大学は、戦前から「自由の学風」を誇りにしており、授業への出席を義務化せず、学生の自主性に任せるという文化が強かった大学の一つです。とくに1960~70年代には、「出席を取るのは学生を管理することであり、学問の自由に反する」という意識が、教員側にも学生側にもあったようです。実際、「教員が出席を取ったらブーイングが起こった」という逸話も残っています。もちろん、現代の京大では全ての授業で出席を取らないわけではなく、科目や教員によって異なります。ただ、こうした「自主性重視」の伝統は現在もある程度生きていると言えます。/ 4. 大学の授業にほとんど出なかった有名人たち(例:村上春樹)はどう評価すべきか? 確かに、村上春樹氏は早稲田大学在学中、「授業にはほとんど出なかった」と述懐しています。彼は映画館通いやジャズ喫茶経営にのめり込み、そこでの経験が小説世界に大きく影響を与えました。また、他にも大学にあまり通わなかった有名人(例えば養老孟司氏、ビートたけし氏など)もいますが、彼らは「大学の外で自ら学び、自分なりの知見を獲得した」タイプの人間です。つまり、「授業に出なかった=成功した」わけではなく、「授業以外の場で自分の頭で考え、行動した」という点が重要です。/ 5. 大学の授業は人生に役立つのか? これは以下のように分けて考えると良いでしょう:① 直接的な役立ち:資格取得、専門知識、職業スキルなど。医療・法学・工学などでは顕著。② 間接的な役立ち:論理的思考力、調査力、多様な価値観の理解など。人生の選択肢や思考の広がりに貢献。③ 無意識的な影響:大学時代に触れた本や議論、人間関係が、後の人生に影響することも多い。/  大学の授業そのものが役に立ったかどうかは、すぐには判断しづらいことが多いです。ただ、「学ぶ姿勢」や「考える習慣」を身につけることは、長期的には大きな財産になります。/ 結論:①卒論・卒業研究は大学教育の集大成である。②授業は必ずしもすべてが「直接役に立つ」わけではないが、人生にとって意味のある土台になる。③出席を取る/取らないは、大学や時代背景によるが、京都大学のような「自由の学風」も実在した。④ 授業に出なかった有名人も、自分なりの方法で学び続けた人たちである。

文部科学省の多様化・個別最適化政策を、生成AIはどう見るか

現在、日本の文科省や中教審や次期学習指導要領の改定の主要な内容に、多様性尊重、個別最適化など、子どもに寄り添う政策がある.。そのことは『内外教育』の 「最新号」(第7244号  2025/05/20)の記事を読むとよくわかる(「『多様性』と『教育の質』」文化庁次長 合田哲雄 、「多様性を包摂する柔軟な教育課程」上智大学教授 奈須正裕、など)。この傾向に関して、賛同する人は多いであろう。しかしここではあえて、批判的な意見を述べて、生成AIがそれにどのような反応を示すのかを観察した。なかなか興味深い意見をチャットGPTは寄せてくれた。(以下、一部転載)

質問―現在、日本の文部省では、多様性尊重、個別最適化など、子どもに寄り添う政策を打ち出しています。しかし、それはタテマエで、実際は周辺に追いやられる恵まれない子どもたちも多くいます。特別支援教育をうたいながら、障害をもつ子どもの特異な才能を伸ばす教育は行われていません。文科省が、子どもの多様化尊重を強調する裏には、何か隠された意図はありませんか。

ChatGPT:の回答―非常に本質的な問いかけです。表向きは「多様性の尊重」や「個別最適な学び」を掲げながら、実態が伴っていないという指摘は、多くの教育関係者や保護者、研究者からもなされています。この矛盾の背後に、単なる運用上の問題を超えた「意図」があるのではないか、という問いは、鋭く重要です。/以下に、考えられるいくつかの「隠された意図」または背景を挙げてみます。1. 政策的な「看板」としての機能(ポリティカル・コレクトネス)文科省が「多様性」や「包摂(インクルージョン)」を強調するのは、国際社会の潮流(例:SDGs、ユネスコの教育政策)に整合させるための側面が強いです。実際に現場で実現されているかどうかよりも、「そうしている」という姿勢を示すことが国際的な評価や予算獲得、政権のアピールに有効です。→ つまり、現実の変革よりも「イメージ戦略」としての多様性が優先されている可能性があります。2. 予算の制約と「切り捨て」の論理―「個別最適化」とは聞こえが良いですが、現場でそれを実現するには、教員の増員や研修、教材の多様化、評価方法の改革など、相当なリソースが必要です。しかし、実際にはそれに見合った予算配分はなされていません。その結果、多くの現場では「多様性対応」を名ばかりで形式的に導入し、実質的には「対応できる子ども」だけを拾い上げ、他は切り捨てるという状況が生まれています。/3. 管理しやすい「多様性」だけを選ぶ傾向―文科省や教育委員会が扱いやすい「多様性」(例:外国籍児童、軽度発達障害など)には支援を集中させ、それ以外の「本当に手のかかる多様性」(例:知的障害や重度の感情障害、才能のアンバランスが大きいギフテッドなど)は見て見ぬふりをされがちです。→ 結果として、「支援が届きやすいところにだけ届き、最も支援が必要な子どもほど取り残される」構造が続いています。/4. 「自己責任」化の伏線―個別最適化=一人ひとりに合わせた教育、という建前は、逆に言えば、「本人に合った支援を受けたはずなのだから、うまくいかなかったのは本人の責任だ」とする自己責任論に接続しやすいです。これは社会保障のスリム化や福祉の後退とも連動しています。/5. 「才能の育成」より「平均化」重視の文化―特に障害をもつ子どもに対して、日本の特別支援教育は「社会適応」や「行動の安定化」が主眼であり、才能の開花や特異性の伸長は軽視されがちです。これは、日本社会に根強い「平均的な子ども像」「標準化された成果」の重視とも結びついています。/まとめ:隠された意図の仮説ー①国際的評価や世論向けのポーズとしての多様性尊重,②財政的制約を個別対応の名の下に押しつける構造,③本当に支援の必要な子を切り捨てる見せかけの包摂,④自己責任論への布石としての個別最適化,⑤「個性」よりも「統制」を重んじる教育文化の継続/ご関心があれば、この問題をより深く掘り下げるために、文科省の政策文書の分析、教育現場での実践とそのギャップの事例収集、海外との比較(特にギフテッド教育や包摂教育の実態)をお知らせできます。

質問2 上記をお願いします。

回答 1
では、ご関心の「建前としての多様性尊重」と「実際の排除・無視の構造」という問題を研究対象として、次のような体系的な研究アプローチを提案いたします。/ 研究テーマ(仮)ー「多様性尊重」を掲げる教育政策の実態と構造的排除:文科省政策、学校現場、国際比較からの検証/  研究目的-日本の教育政策が掲げる「多様性尊重」や「個別最適化」が、実際には特定の子どもたち(例:障害をもつ子ども、ギフテッド、家庭的困難を抱える子など)を周縁化・排除している実態を明らかにし、その背後にある政策的・制度的・文化的要因を探る。/  研究構成・アプローチ-① 文科省政策文書の分析(ディスコース分析)対象文書:学習指導要領、教育振興基本計画、特別支援教育の推進計画 教育再生実行会議、中央教育審議会答申など 分析視点:「多様性」「個別最適化」「包摂(インクルージョン)」のかたられ方「多様性」とは誰のことか? 誰が対象から漏れているのか 国際的な潮流(SDGs、OECDなど)に対する「アリバイ」としての言説 ② 現場の事例調査(インタビュー・アンケート・観察) 対象:公立小中学校・特別支援学校の教員、管理職、保護者 手法:教員へのインタビュー:理念と実践のギャップ、困難、支援体制 保護者の声:支援の実感、排除の経験、学校との対話 現場観察:通常学級・通級・支援学級などの連携状況 目的:現場の裁量や限界の実態を明らかにする 実質的に排除・無視されている子どもの存在を浮かび上がらせる ③ 国際比較:海外のギフテッド教育・インクルーシブ教育 対象国(例):米国:ギフテッド教育の制度化、IEP(個別教育計画)フィンランド:支援教育と学力保障の両立 フランス:文化的多様性への対応、合理的配慮の議論/ 分析視点:「特異な才能を持つ子」への教育制度の有無と支援のあり方 「支援=行動の正常化」ではなく、「個性の発揮・社会参加」への視点があるか 分析の視座・理論的枠組み(例)ミシェル・フーコーの権力論/ ディスコース分析:誰が何を「正当な支援」と定義しているのか ナンシー・フレイザーの「再分配と承認の正義」:社会的資源と文化的認知の両方における不正義 インクルーシブ教育論(Ainscow, Boothなど) 学校全体の「排除メカニズム」の分析 /  研究成果の意義-文科省政策の「言説と現実の乖離」を具体的に明らかにする.教育現場における「見えない排除」の構造を可視化.日本の日本の教育政策における「包摂の罠」を理論的に捉える。真に個別化・多様化に資する教育への提言を行う/ ご希望に応じて今後できることー調査票やインタビューガイドの作成支援、参考文献リストの提供(国内外)、調査計画書や研究計画書のドラフト作成、ご関心に合わせて、この中から一部だけを掘り下げてもよいですし、調査研究の企画書としてまとめることも可能です。どの方向性に進めたいか、ご希望を教えていただければ、次のステップをご提案します。

吉田文/濱中淳子他(編著)『専門書を読む』(2025)を読む

早稲田大学の吉田文教授より、吉田文/濱中淳子/渡邉宏一編著『専門書を読む』(ミネルバ書房、2025)をお送り頂いた。そのお礼状を書くのが遅くなり、本日、下記のような内容の礼状を出した(一部抜粋)。大学教育研究のあり方に1つの新しい方法を提起している本として読ませていただいた。

ご編著『専門書を読む』をお送り頂きながら、御礼を申し上げるのが大変遅くなりました。まだ3つの章(序論、第2講、第10講)を読ませていただいただけですが、深く御礼を申し上げます。/ 現在大学教育の改革に関して、いろいろ調査や提言がありますが、大学の授業の中身(カリキュラムと方法)に関する実証的な報告はほとんどない中で、本書は、その嚆矢になるものだと感じました。/ 大学での学びは、昔は各自の「読書」が中心だったと思いますが、それが今どのようになっているのかが、吉田さんが書かれた序論からいろいろ学び、考えさせられました。/ 本書は、授業(特にゼミ)のテキストに何を選ぶのか、あるテキスト(専門書)を選んで、授業を展開すると、学生はそれをどのように読んで、どのような感想を持ち、授業の中ではどのような指導や議論や学びが行われるのかが、詳細に記録されていて、大学の授業研究として、大変興味深いものと思いました。 / 第2講のテキストはデユ―イの「民主主義と教育」と第10講のテキストの1つが志水宏吉『「つながり格差」が学力格差を生む』(2014)で、それぞれ、学生が普段は読まない、しかも読むのに苦労する、読んでも共感できないテキストでそれに苦闘するさまが、よく記録されていて、感心しました。そのような試みに、大学教育の効果があることもわかります。第2講義のデユ―イの「民主主義と教育」に、学生が格闘するさまや吉田さんの的確な指導の様子が詳細に描かれていて、このようにして学生は学んでいくものだと感心しました。私の授業(ゼミ)はこのように学生に苦労させることがなかったことを反省も込めて思い出しました*。第10講は、志水宏吉氏の初期の頃の著作をテキストにして、早稲田の学生の反発を買った記録は面白く読みました。これはテキストが適切ではなかった側面(格差の内容が育ちのよい早稲田の学生のハビトウスに合わない)は否めないとも感じました。/ 今、大学教育のあり方が、いろいろ議論されていますが、大昔の自分自身のことを、振り返ると、教授たちの著作から学ぶことは多くありましたが、講義内容に感銘を受けたり、授業でテキストの読み方を学んだり、論文の書き方を学んだ記憶は、全くないように思います。全て、自分の勝手な読書から学び、その著者を遠くから「師」と仰ぎ、学んでいったように思います。/ 日本の大学で読書から大学の授業での学びへという変遷がどのように起こったのか。また、現代における読書(専門書を含む)の学びは、どのようになっているのか、本書の他の章も読んでいろいろ考えてみたいと思います。ご著書に深く、御礼申しあげます。

*私の場合、その科目(例えば教育社会学ゼミ)に関係した内容で、自分が感銘を受け、学生にも共感が得られそうな論稿を教材にして、その分野の考え方のエッセンスを学んでもらおうとしていたと思います。昔の上智大学教育学科の3年生の私のゼミのテキストの記録が残っていましたので、添付させていただきます。

今年のバラ

5月というと、バラの季節でいろいろなところにバラの花を見に行きたくなる。しかし、今月末締め切りの原稿を2つかかえ、それが何となく気になり、近場で我慢している。

近所で、バラの綺麗な家があり、毎年楽しませてもらっている(1昨年5月13日、昨年5月8日)、今年は5月12日に訪れ、相変わらずの美しさに感激した。

KODAK Digital Still Camera

今年は、うちの庭でも6つほどバラが咲き(モッコウバラも含む)、特に数年前に八千代の京成バラ園で購入した小さなピンクの花を付ける木が2メートルの高さになり100以上の花を付けている。バラも花の命は短く、旬な美しさの時期は数日で終わる。その旬な時期を楽しみたい。